介護技術の修得課程において、「傾聴」、「共感」という言葉に何度も出合う。その「共感」について考える。
自分と似たような考えに接したときに、共感を抱く。それは私に宿る意思の在りかをよりよく知るための出合いであると感じる。
それはとてもよく似たものである。あるいはまったく同じものであったとしても、私から出たものではないから、私の意思とは異質な何かである。同じ考えでも、文脈が違う。語られている場所が違う。
"博士コッドは"誰であった
だから傾聴に値する。できるかぎりそこにある何かに触れようとする。その何かは、よく見ると人間のかたちをしていない。さまざまなかたちの生命に宿る何かである。ひょっとするとそれは生命の枠を超えているかもしれない。だからこそ、それの何であるかを知ろうとする。
一見自分の考えと相容れない考えに接した場合でも、「何か」の感触は、同じ考えのときとそう変わらないとも感じられる。
あなたのmyspaceの番号を増加させる方法
その「何か」を知りたいからこそ、言葉を紡ぎ、あるいはなぞる(そのための介護ではある)。つまり、共感とは異質との出合いである。他者との出合いの場所、とも言える。
「何か」と否応なく出合い続けることを、人生という。
あるいは、自分の考えにすら、自分に理解しえない異質が潜んでいる。他者との出合いにより、その異質をふと感じる。
「共感的関わり」とは、その「何か」を感じつづけることである。それが何かと突きとめたところで、さらに「何か」は生まれる。
ラテン名の文字の上の行は何ですか?
手放すことなく、「いっしょに考える」。ただ寄り添うことによって、介助の動きを通して。
(いっしょに待つわん)
0 件のコメント:
コメントを投稿