2012年4月27日金曜日

時の陽炎・短編小説


 ヒマラヤ杉に囲まれた丘の上の厳しい建物を前にしたとき、心細さはひとしお激しくなった。

 厳しい建物にふさわしい古めいた石造りの門柱には、〈○○大学F校舎〉と墨書されたすすけた木の看板がさがっていた。諸田はまっすぐ構内に入っていくことができず、門の前でしばらくうろうろしていた。彼方の玄関の大時計を見るまでもなく、約束の時刻が迫っていることはわかっていた。このまま引き返してしまおうか。いきなりそう思ったが、それではまるで電車賃を払って無駄骨を折りに来たようなものではないか。学校の前まで行って気後れして帰ってきたと聞けば、妻は甲斐性なしのあんたのやりそうなことだと罵るだろう。息子はきっとあのあわれむような薄笑いを浮かべるにちがいない。門の前に� ��どおどと佇み、手の甲で汗をぬぐっている諸田の脇を、数人の学生が談笑しながら坂を降りていった。

 思い切って入っていった。ひどく天井の高い、暗い、威圧的なホールのむこうに、「庶務課」と記された黒い木札が下がっているのを見つけ、その窓口に例の手紙を差し出して来意を告げた。あらかじめ話が通じているのか、あるいは彼と同じ用件のものがもう幾人となくこの窓口を訪れたためなのか、諸田の要領を得ないくだくだしい説明を途中でさえぎって、応対に出た女の事務員は言った。

「ちょっと待ってください。すぐに心理学教室の人が来ますから」

 彼女は電話をかけ、しばらくすると廊下の彼方に白衣の男が姿をあらわした。男は愛想のいい笑みを浮かべながらせかせかとこちらに近づいてきて、か� �り先から諸田にきさくな会釈をした。膝のあたりまである長い白衣が、いかにもなにかの実験に従事する科学者という雰囲気で男を包んでいたが、しかし、そうした雰囲気とはいかにも不釣合いなセールスマンのような如才のない物腰が、諸田をいくらか安堵させた。近づいてみると、男の白衣はひどく着古して、薄汚れた裾がしわくちゃになっていた。縁なし眼鏡をかけて額の禿げあがった、齢がいっているのか若いのかよくわからない男だった。

「諸田賢蔵さんでいらっしゃいますね」

「はあ……」

「お待ちしてました。どうもわざわざご足労いただきまして恐縮です」

「はあ……」

 男は庶務課の窓口にありがとうと声をかけ、ついてくるようにと諸田に言った。いったいどんなことをするのかと諸田は訊� ��た。

「いや、ごく簡単なことだから、なにも心配することはありませんよ」

 詳しい説明はむこうへ行ってからするといって男は歩き出した。

 場所馴れないためか、建物の内部はかなりこみいっている感じだった。二度ばかり廊下をまがり、渡り廊下を渡り、倉庫のような感じの殺風景なべつの建物に入り、階段を降りてさらにもう一度廊下をまがった。渡り廊下から、広いグランドのはるかむこうでラグビー部員が横一列に疾走してパスの練習をしているのが見えた。

 地階の低い天井には大小幾本ものパイプが這い、空気は湿り気を帯びてうっとうしかった。頭がつかえそうな錯覚にとらわれて歩きながら、以前どこかでたしかこれとよく似た場所を歩いたことがあるという思いに諸田はとらわれていた。どこ� ��ったろう……。

 そう、病院かもしれない。総合病院の入り組んだ地下室。肝臓ガンであっという間に死んでしまった兄貴。電話をもらって飛んでいったけれど、臨終には間に合わなくて、兄貴の寝ていたベッドはもう寝具をとりかえられ、なにごともなかったように次の患者の到来を待ち受けていた。看護婦につれられてエレベーターで地下に降りた。絶えず怒っているような口をきくその看護婦も、エレベーターの中ではさすがに殊勝なおくやみの言葉を言ってくれた。しかし地階に着くと、いつも何かに追いかけられているといった小走りの足どりで、迷路の奥へとずんずん進んでいった。あの病院の地下室の廊下も、頭がつかえそうに天井が低く、空調ダクトの太いパイプが頭上を這い、コンクリートがむき出しだった。冷� ��いほどに清潔な病室の白い壁や、塵ひとつ落ちていないリノリュウムの床からは想像もつかない殺風景な場所だった。看護婦は諸田から逃げようとでもするかのようにどんどん進み、独りで抛り出されたらとてもエレベーターのところまで戻れる自信はなかった。幾度目かに廊下をまがると、突然、前方に光が見えた。網入りガラスのはまった鋼鉄のドア。看護婦が横の扉を開け、諸田は入った。そこが遺体安置室だった。看護婦は一礼し、諸田の背後でドアは閉まった。いきなりひとりにされ、諸田はうろたえた。前方のストレッチャーの上に、身体の形を浮き上がらせた白布がかぶさっていた。その手前の小さなテーブルに、花瓶に盛られた菊の花と、青い煙を垂直に立ちのぼらせている短い線香。が、どうしたわけか、家族のもの� �誰もいない。入院患者のパジャマやガウンやらを詰め込んだボストンバッグや大きな風呂敷包みが壁際に置かれてあるというのに。あのときのなぜかいきなり背中に火がついたような焦燥。線香のにおいのなかに感じた死のにおい。仏に掌を合わせることも忘れ、いきなり遺体安置室から逃げ出したくなるほどにうろたえたことを思い出して、諸田は思わず眉をしかめた。

 案内されたのは、保管していた品物をすっかり吐き出してしまった小さな倉庫、といった感じの部屋だった。むきだしの蛍光灯の光がモルタルの壁を白く照らしていた。大学あるいは教室という言葉から諸田が連想していたものとはまるで趣が違う。もちろん学生の姿などどこにもない。左手の壁際に、配電盤のような、あるいはなにかの制御盤のような箱型� �機械が置いてある。一列に並んだおびただしい数のスイッチらしいつまみと、その上のパイロットランプ。黒いダイアルと、電流形か電圧計らしい丸い計器。なにかごちゃごちゃと書いてある表示板。機械の前に古びた木製の机とスチールの椅子。同じ組合せの机と椅子がもう一組、機械のななめ前に置いてある。機械のむこうは嵌めころしのガラス窓になっていて、むこう側からカーテンで覆われている。すぐ横に隣室につづくドア。反対側の壁近くに、古道具屋で見つけたような色褪せた応接セットが置いてあり、肱掛椅子のひとつにいかにも実直そうな四十五六の男が、落ち着かぬ物腰で坐っていた。それが自分と同じ今日の実験の応募者であることは、諸田にもすぐ見当がついた。その男も、なにかの作業場か倉庫のようなこの殺 風景な部屋の様子にあきらかに当惑しているのだ。まったく装飾品などなにひとつとしてありはしない。おや、よく見ると、真正面の壁のやや左寄りに、鏡が一枚嵌め込んである。風呂場の、髭をあたるときに使うような、長方形の、さして大きくはない鏡だ。しかし、この殺風景な部屋の壁に嵌め込まれたただ一枚の鏡は、むしろ見る者に異様な感じを与えた。

 白衣の男は諸田を先客と並んでもうひとつの肱掛椅子に坐らせ、自分は二人と向き合う恰好で前のソファに腰をおろした。

「さて、これで今日の実験に参加してくださる方がそろったわけですから、まず事務的なことをすませて、それからお二人にやっていただくことの説明をすることにしましょう」

〈交通費請求書〉と記された紙片がくばられた。ここへ来� ��までに利用した交通機関と運賃を記入すると、白衣の男は紙片をもって部屋を出ていったが、すぐに戻ってきた。茶封筒が二人の前に置かれた。


ポリシーとプロシージャを記述する方法

「まえもって申し上げておきますが、これは今日お二人がわれわれの教室に来てくださったことに対して受け取っていただくものですから、実験がどういう形で終ることになっても、その点はご心配ありません」

 封筒の中には日当と交通費が入っていたが、それは成功報酬ではなく、参加報酬だというわけである。もちろん、どんなことをさせられるのか見当もつかず、ただ1時間で2千円の日当が魅力でわざわざここまでやってきた諸田にしてみれば、そうでなければ困るわけである。先方の要求するとおりにうまくできなくて、それを口実に日当が支払われなかったりしたらたまったものでない。彼は安心して金の入った封筒を背広の内ポ� ��ットに納めた。どんなことになるのか知らないが、白衣の男の人当たりのよさと良心的な金の払いかたは、諸田をすこし安心させた。

 白衣の男は領収証を差し出して、記名捺印をしてくれといった。印判をもっていない諸田は、拇印を押させられた。朱肉でよごれた指を紙で拭きながら、領収証にべったりと記された自分の指紋を見ていると、なにか犯罪者になったようなちょっといやな気分になった。

 白衣の男は領収証を持ってまた部屋を出ていった。諸田は不安そうにもう一度部屋中をぐるりと見まわした。戸外の、あのはじけるような春の陽光と汗ばむ風が別世界のもののように、部屋は陰気に沈んでいる。ずっと以前、どこかこれとよく似た場所に自分はいたというおかしな思いがまた心をよぎる。

「どんな� �とをやるんでしょうね」

 諸田は隣の男に小声で話しかけた。

「さあ……」

 男は人のよさそうな笑みを浮かべただけだった。愛想のいいパン屋の主人、といった感じだ。もちろん諸田だって、自分の質問に相手が答えられないことは百も承知していた。だが心細くて何か言わなければいられなかったし、二人で何かやらされるなら、白衣の男がいないあいだに、この男といくらかでも気心を通じ合っておきたいという気持もあった。とにかく相手が自分とまったく毛色の違う人間ではなく、そこいらの商店街に行けばいくらでもいそうな、人の好さそうな中年男であることは、いくらか彼を心強くさせた。

「簡単なことだっていうけど、とにかくヘマをやらないで早くここから出たいものだね」

 男はあいかわ� ��ず人の好さそうな微笑を見せながら、さも同感だというように頷いた。

 廊下に靴音がしたので話はそれきりになった。見知らぬ男が大股に部屋に入ってきた。四十がらみの、髪をきちっと七三に分けた、眉の濃い、いかにも気むずかし屋といった感じの男である。やはり白衣を着ているが、こちらのはぱりっと糊のきいた真っ白いやつだ。後ろにひかえている縁なし眼鏡の男の、汚れて皺の寄った白衣がいかにもみじめっぽく見える。

「この実験を担当している小林です」

 男はややぶっきらぼうに名乗り、諸田と隣の男が腰を浮かせるのを手で制し、自分もソファに腰掛けた。小脇に抱えていた分厚いファイルや大学ノートの束をテーブルに置き、

「まあまあそう固くならないで」

 二人が今日の実験に協力 してくれたことに感謝しているといってから、実験の説明をはじめた。

「私たちの心理学教室では、いま教育心理学のある実験をしています。どういうことかをひとくちで申しますと、人間があることを学ぼうとする場合、いろいろな動機が考えられるわけですが、それぞれの動機の内容とその強さによって、当然学習効果が違うわけです。たとえば、どうしてもあることを学びたいと思うとき、人は意欲的に勉強します。しかし、いうまでもないことですが、人はいつも自発的に勉強するわけではありません。子供たちはそうしたいと思って教室で勉強しているわけではありません。いわば外からの有形無形の力によって、人はさまざまなことを学んでいく場合が非常に多いわけです。こうした場合、学習効果を高めるためにいろい ろの手段を用います。ほめる、褒美を与える、叱る、罰する、というようなことです。そこで私たちは、罰が学習効果に与える影響を数量化し、理論立てるための研究をつづけているというわけです。たとえば、どのような罰をどれくらい与えたら最も学習効果をたかめることができるのか。同じ罰でも、それを与える人の立場が変わると、どのような違いが生じてくるか。まあそういうことを実験によってたしかめたいと思っているわけです」

 実験担当者は今までに行なった実験の結果をたしかめるように、分厚いファイルを開き、細かい文字や数式、記号、あるいは何かの図面やらがびっしりと書き込まれたページをぱらぱらとめくった。

「そのためにさまざまな年齢と職業の人にあの手紙を差し上げ、実験に協力してい� �だいているわけです。実験の方法はある人には先生に、ある人には生徒になっていただいて、立場の違うさまざまな人たちが先生と生徒としてどのような影響を及ぼしあうか、そうしたなかでどれほどの罰がどのような効果を発揮するか、それをたしかめていきたいわけです。そのために、今日きていただいたお二人のどちらかに先生役を、どちらかに生徒役をつとめていただくことになります」

 実験担当者は二人に向かってどちらの役をやりたいかと訊ねた。二人ともちょっと黙っていたが、やがて隣の男が戸惑いながら答えた。

「そうですなあ、どうも先生というのはなんですから、私はやはり生徒の方に……」

 それを聞いて諸田もあわてて口を開いた。

「いや、あたしだって先生なんて柄じゃないから……� �

「先生といってもべつにむずかしいことをやるわけじゃないんですよ」実験担当者は笑いながら、「それではこうしましょう。公平を期するためくじをひいていただくということでどうでしょう」

 むろん二人に異議はなかった。実験担当者は壁際の机に行ってくじをつくってきた。

「先生と書いてあるくじをひいた方に先生をやっていただくということでよろしいですね」

 二人は頷き、まず諸田が、実験担当者の掌の中の細長い紙片の片方を引き、隣の男が残りを引いた。諸田の紙には「先生」と記されていた。

「どうも、よわったな」

 諸田は頭を掻きながら紙片を実験担当者に見せた。

「ええと、諸田さんが先生役で、すると伊藤さん、でしたね、伊藤さんが生徒役ということになりますね」

 隣の男は頷いた。望む役を引き当ててほっとした様子だった。

「それではこれから実験に入ります。諸田さんはあそこの机に坐って問題を読みあげていただきます」

 実験担当者は配電盤のような機械の前の古ぼけた木机を指差した。

「伊藤さんはむこうの部屋で問題に答えていただきます。そうですね、配置につくまえにお二人ともむこうの部屋に行ってもらいましょうか。伊藤さんが答を間違えた場合、どんなふうに罰を与えるか、簡単に説明しておきましょう」


教育は、それは何ですか

 隣室に通じるドアが開かれ、電灯がつけられた。前の部屋の三分の一ほどしか広さのない、箱といった感じの部屋で、床も壁もやはりモルタル塗りのままである。カーテンで覆われたガラス窓の前に、やはり木の机と、肘掛のついた回転椅子が置いてある。机の上には、弁当箱大の、横一列に黒い押しボタンらしいものの並んだ薄茶色の合成樹脂製の箱。その隣に、長さ30センチほどの幅広い帯状のズックの布が2枚。それらのものから3本の電気コードが机の脇に垂れている。電気コードは間仕切りの壁をとおってむこうの部屋に伸びているようだった。諸田は、合成樹脂製の箱からは、近頃テレビの宣伝でよく見かけるリモコン・スイッチを連想し、薄汚れた感じ� �ざらざらした布からは千人針を連想した。すると、臍のあたりがむず痒くなってくる。千人針――あれは虱の恰好の棲家だった。

「伊藤さんはここに坐って、諸田さんがむこうの部屋で読み上げる問題に答えていただきます。問題は簡単な記憶力テストで、べつになにもむずかしいことはありません。答は諸田さんが読み上げる四つの中から一つ選んで、このボタンを押していただけばいいわけです」

 実験担当者は机の上の合成樹脂製の箱を指し示し、自分でやって見せた。

「たとえばいちばんはじめの答が正しいと思ったら、@のボタンを押してください。するとむこうの機械の@のランプがつくわけです」

 実験担当者はつぎに電気コードのついた布を取り上げ、二人に見せた。布の真中には長方形の薄い銅板が貼 りつけてある。彼がいうには、電極は隣の部屋のあの機械に接続されていて、万一伊藤が間違った答をすると、罰として電機ショックを受けなければならないのである。

「機械が正しく作動するかどうか、ちょっとテストしてみましょう」

 実験担当者は、諸田に机の上に手を置くようにいい、諸田が言われたとおりにすると、手首に電極のついた布を乗せた。諸田はちょっと尻込みをした。

「いや、ほんの軽いショックですから、しばらくそのままじっとしていてください」

 実験担当者は、縁なし眼鏡にスイッチを入れるように命じた。男は隣の部屋に行き、ブザーが鳴ると同時に、諸田は机の上に置いた手をいきなりひっこめた。痺れと痛みと灼熱感のいりまじった衝撃になんの前触れもなくいきなり手首を刺さ れたのである。ひどくあわてて腕を引いたものだから、自分の掌で脇腹を打ってしまったほどだった。布は床に落ちていた。心臓がどきどきしていた。

「驚きましたか」

 実験担当者は布を拾い、手で埃を払いながら言った。

「ええ、いきなりビリッときましたからね」

「いまのは45ボルトの電圧ですから、べつに危険はないんです。初めは誰でもびっくりしますよ。さてと、機械が正しく作動することが確認できましたので、それでは実験にかかりましょう。伊藤さん、椅子に掛けてください」

 しかし一部始終を黙って見ていた伊藤は、不愉快そうに顔をしかめた。

「どうもね、先生、どうも私は電気というのは苦手なんですよ」

「しかし電機ショックが送られるのはまちがった答をした場合だけ です。それに、電気ショックによって火傷をしたり皮膚に傷が残るというようなことはありません」

「それはそうでしょうけど……どうもなんだかよわったな」

 だが実験担当者はもうそれ以上伊藤のぼやきにとりあおうとしなかった。彼はひどく事務的な口調で、もう一度、自分の責任において、万が一にも実験に協力してくれた人を傷つけることがないよう充分に配慮されていると繰り返し、伊藤を椅子に掛けさせた。伊藤は両手を肘掛に置かされ、手首に透明なクリームのようなものを塗られた。それは、電気ショックを受けても火傷ができぬようにするための薬なのだという。薬を塗った個所に電極が密着するよう、布は両の手首に巻かれ、マジックテープで止められた。そのうえさらに、ショックに驚いて伊藤が不必� �な動作をしないようにと、手首は椅子の肘掛に紐で縛りつけられた。

「すこしきつく縛りすぎたかな。痛いですか」

「いや、大丈夫です。……だけど、こんなことをしなくても私はべつに実験を投げ出したりしませんよ」

「どうか気持を悪くなさらないでください。途中で電極がとれたりして実験を中断したくないのです」

「それはわかりますけど、どうもなんだかへんな気分だな。電気椅子に縛りつけられたみたいで……」

 諸田は、この人の好さそうな中年男がちょっと気の毒になった。ついいましがた、この男が生徒と書かれたくじを引き当ててほっとしていたのを思い出して、皮肉な気もした。こんなことをされるくらいなら、先生になるほうがはるかにいいだろう。

「伊藤さん、その姿勢でスムー ズにボタンが押せるかどうか、ちょっと試してみてください」

 支障のないことが確認された。そこで実験担当者は諸田と縁なし眼鏡の男をうながして部屋を出ようとした。伊藤のおどおどした声が追いかけてきた。

「先生、ちょっと待ってください。あのう、私、以前医者からちょっと心臓が悪いといわれたことがあるんです……いえ、たいしたことはないんですが、でも、電気ショックを受けても大丈夫でしょうか」

 伊藤はほんとうに心配そうな顔をしていた。実験担当者は即座に、自信に満ちた、というよりもむしろ、伊藤の訴えなどなにひとつ斟酌していないことがありありとわかるひどく冷淡な口調で言った。

「ショックはあるいは痛い場合もあるかもしれません。しかし火傷が残るといったことはありま せん。いままでの実験でも事故はなかったから、大丈夫だと思います」

 伊藤はまだなにか言いたげだったが、実験担当者はあきらかに、それ以上彼の不安や取越苦労にわずらわされて実験が不必要に手間取ることを迷惑がっていた。伊藤は口をつぐみ、三人は彼を残して部屋を出た。仕切りの扉が閉じられた。

「では先生、おねがいします」

 縁なし眼鏡の男は会釈をするとどこかへ行ってしまった。

 1時間という時間の制約にせかされているためか、あるいはそれが彼の性癖なのか、実験担当者はいっさい無駄口をきかず、笑みも浮かべず、事務的な口調で諸田に指示をあたえた。諸田は機械の前に坐らされ、椅子に手首を縛りつけられた男に向かってこれから読み上げる問題のテキストを与えられた。老眼鏡を かけ、横一列に並んだ1から10まで番号のふってある言葉を黙って読んだ。どれもみな短い言葉で、しかも読めないようなむずかしい言葉がないことにいくらか彼は安心する。間違った読み方をしたり、あるいは読み方がわからないなどと言い出せば、まさか電気ショックを与えられないまでも、実験担当者は心の中で諸田をきっと馬鹿にするにちがいなかろう。

「これは練習問題です。実験がスムーズに行なえるよう、この問題で練習をしてみます。まずここに番号のふってある十個の言葉を、伊藤さんに聞こえるようにはっきりと読みあげてください」

 諸田は命じられるままにテキストのその個所を読んだ。

「伊藤さん、よく聞こえましたね」

「はい」と殊勝な返事が返ってきた。緊張している様子が声にあら われている。

「では問題に入ります。いま読み上げた十個の言葉のいちばん初めの言葉は〈広い〉で始まっています。この〈広い〉につづく名詞がなんであったか、諸田さんがこれから読み上げる四つの中から選んでください」


ドーバー城の歴史は、なぜそれが建てられました

 促されて諸田は読んだ。

「野原、畑、原野、荒地」

「けっこうです。伊藤さん、答をどうぞ」

 即座にブザーが鳴り、機械の上に四つ並んでいる回答用ランプのBと番号のふってある個所が赤く光った。

「正しい答は太文字で印刷されていますが、諸田さん、伊藤さんのいまの答は正しいですか」

「合ってますね」

「正しかったらつぎに進んでください」

「ええと、つぎは、暖かい――部屋、心、手、光」

「どうぞ」と実験担当者は答を促した。

 今度はブザーがなるまでにちょっと時間があって、Aのランプがついた。

「諸田さん、正しいですか」

「ええと……正解は〈手〉だから、Bじゃ なくちゃいけないんですね」

「つまりまちがっているわけですね。まちがった場合には、さっき説明したように罰を与えなければなりません。その場合はこのスイッチを上に押してください。すると伊藤さんの手首に電気ショックが送られるわけですが……いや、ちょと待ってください。まだ押さなくてけっこうです。さきにショックの送り方について説明しておきましょう」

 機械の前面に、横一列におよそ三十ばかりの銀色の小さなスイッチが丸い頭を下に向けて並んでいた。ひとつひとつのスイッチの上にはそれぞれ電圧が表示してある。いちばん右端が15ボルトで、すなわちそれを押せば電圧15ボルトのショックが隣室の男の両手首を襲う仕組なのである。表示板によれば、右からひとつづつ、スイッチは15ボル� �刻みで電圧が上がっている。左端のスイッチの電圧は450ボルトだった。さらに、スイッチの上には、最初の四つを一括して、「軽いショック」と記されている。つぎの四つは「中程度のショック」。そして順ぐりに「強いショック」「非常に強いショック」「激しいショック」「非常に激しいショック」「危険なショック」と記されてあり、最後の二つのスイッチの上の文字はテープで隠されていた。

「伊藤さんが間違うたびにスイッチを押していただくわけですが、最初の間違いでは15ボルト、二度目に間違ったらつぎの30ボルトというように、間違うたびに一段階ずつ上のスイッチを押していただきます。スイッチを押している時間はだいたい1秒程度でけっこうです。答が間違った場合の手順は、まず〈間違いです〉� �伊藤さんに聞こえるように答えていただき、つぎに電圧を知らせ、スイッチを入れ、正しい答を読みあげていただくことになります。ではやってみてください」

 諸田は言われたとおりにした。スイッチを入れるとブザーが鳴った。小さなパイロットランプが赤く光り、電圧計の針が右にちょっと動く。覚悟をしているのか、伊藤は何も言わなかった。

 練習問題が終るころには、彼はこの作業がかなりスムーズにできるようになっていた。あいかわらずひどく緊張し、ときどき手順をまちがえては注意されたが、しかし仕事そのものはそれほどむずかしいものではなかった。ただ、隣室の男が間違った答をするたびに電気ショックのスイッチを入れねばならぬことは、やはりあまり気持のいいものではなかったが、あの男だっ� ��2千円の日当が目当てでわざわざこの実験室にやってきたのだし、電気ショックを受けるものとスイッチを入れる役とに分かれたのは公平なくじ引きの結果なのだから、どうにも仕方のないことだった。むしろ諸田には、実験担当者が横の机に坐って彼の動作を厳しい表情でじっと見つめていることの方が苦痛だった。

「よろしい、たいへんけっこうです」練習問題が全部終ると実験担当者は言った。「では本番に移りましょう」

 新しいテキストが諸田の前に置かれた。練習のときより問題の数がずっと多い。20問もある。実験担当者は、練習と同じように実験をすすめるといった。つまり、20通りの言葉をまず一気に読みあげ、つぎに最初の言葉から順に問題を出し、隣室の男が答を間違えたら電気ショックのスイッチ を押すわけである。

「テキストの最後までいったら、また初めの問題に戻って実験をつづけてください。伊藤さんが全ての問題に正しく答えられるようになるまで、実験をつづける予定です。……ああ、それからもうひとつ、伊藤さんが間違った答をするたびに電圧を一段ずつ上げることを忘れないでください」

 諸田は頷きながら、やれやれという気持だった。わずか10問の練習でも、隣室の男は5問もまちがえている。今度は20問である。20通りの言葉をすらすらと読みあげられて、それをいちいち憶えていることなど、並の記憶力の持主ではとてもできないことである。ましてや齢をとってもの憶えが悪くなったことをことあるごとに彼は始終思い知らされていた。あの気の好さそうな中年男の頭の中はまちがいな� �支離滅裂になり、椅子に縛りつけられた手首は絶えず電気でびりびりと震えることになるだろう。彼はくじ引きの結果振り分けられたあの男の不運に同情し、それと同じだけ自分の幸運を喜んだ。

「ではどうぞ、始めてください」諸田は背中をしゃちこばらせてテキストを開いたが、すぐに、おどおどした目で実験担当者を振り返った。

「あの、煙草を吸ってもいいですかね」

「どうぞ、かまいませんよ」

「なんだかどうも落ち着かないもんで……」

 実験担当者はソファーの脇のスタンド式の灰皿をもってきてくれた。諸田は一服つけた。なんだかひどく長いこと煙草を吸わずにいて、身体がすっかり煙草に飢えている気分だった。が、彼はいくらも吸わずに吸殻を灰皿にこすりつけた。気がつくと、実験担当� ��は大学ノートをひろげたまま、手持ち無沙汰にぼんやりとこちらを見つめている。貴重な実験の時間を浪費しているような後ろめたさに思わず捉えられたのである。

「どうもすいません」諸田はぺこりと頭を下げた。

 実験担当者は黙って会釈を返した。それは、早く実験にかかるようにという催促のように諸田には思えた。

「伊藤さん、じゃあいきますよ」

 隣室の男の返事を待って、諸田はみるからに生真面目な表情でテキストを読みはじめた。

「白い指、暗い町、静かな音楽、大きな犬、重い荷物……」

 固い声だった。ところどころつかえた。喉が渇いた。

 ひととおり問題を読みあげたが、隣室の男からはなんの反応もない。目の前のガラスを覆っている薄いカーテンを透して彼が椅子に腰� ��けたままじっとしている様子がおぼろに窺える。手首を肘掛に縛りつけられているのだから動くことはできないのだし、問題に入る前なので隣室の男が何かを言うはずはないのだが、それでも諸田はちょっと戸惑ったように実験担当者の方を見た。糊のよくきいた白衣をつけた男は厳しい顔で小さく頷いた。

「じゃあ問題に入りますよ。第1問、白い――旗、壁、服、指」

 即座にブザーが鳴ってBのランプが点灯した。

「間違いです」

 諸田はスイッチを押した。ブザーが鳴った。隣室の男は何も言わない。横合から実験担当者が言った。

「スイッチを入れる前に電圧を読みあげてください」

「すいません、どうも。15ボルト。正しい答は〈指〉です」

「先をどうぞ」

「はい。ええと、つぎは� �……暗い――町、道、海、夜。どうぞ」

 Aのランプがついた。また間違いだ。今度は実験担当者から注意されないようにと、諸田は定められた作業手順をひとつひとつ注意深く辿っていった。

「間違いです。30ボルト。正しい答は〈町〉です」


 これでいいかと実験担当者を振り返り、「さきをどうぞ」と事務的な声に促されてつぎの問題を読みあげる。

 実験はしばし淡々とつづけられた。といっても、諸田は一問ごとに、まるで実験担当者の裁断を仰ぐといったていで彼を振り返った。見たこともない機械の前に坐らされ、慣れない仕事を与えられて、老眼鏡を掛けた初老の男はいかにもおどおどしていた。ただ、馴れないながらも、諸田が精いっぱい仕事に取り組もうとしていることは容易に認められた。

 事実、彼は手順どおりに正確に作業をすすめることに全神経を集中していた。しばらくはそのことのほかに何も頭に浮かばなかった。いつまで経ってもその態度は落ち着きがなく、自信なさそうであったが、し� �し彼の目と口と手は次第にもの慣れてきて、ゆっくりした一種のリズム感を身につけてきさえした。「ええと」とか「それじゃあ」などというよけいな言葉を口にしなくてもテキストを読み上げることができるようになり、問題を読み上げるや、隣室の男が間違った答をした場合には滞りなく電気ショックを与えることができるように、彼の手は即座にごく自然にスイッチに伸びるのだった。

 彼の手が無意識にスイッチに伸びるようになったのは、隣室の男があまりに頻繁に答を間違えるからだった。こうなることは練習問題のときから予想されていたことだったが、しかし隣室の男がこうもあてずっぽうででたらめだと、スイッチに手を伸ばしながら、諸田はちょっと心配になってくる。約束の1時間のあいだにほんとうに実験� �終るのだろうか。テキストの問題を最後までやって、それでおしまいというわけにはいかないのである。実験担当者は隣室の男が全ての問題に正しく答えられるまで実験をつづけると言った。しかし6問読みあげて、正しく答えられたのはたったの1問である。こんなことで実験がひどく手間取ったら、勤めに遅れてしまうかもしれない。諸田は早くもうんざりし、ちょっといらだち、練習問題のときにはこうした暗記力のテストに答えなければならないあの気の好さそうな中年男に同情を感じたにもかかわらず、いまは、あの男の記憶力の悪さに意地の悪い軽蔑を感じはじめていた。記憶力が悪ければ悪いなりにもうすこし勘をはたらかせてもよさそうなものに、あの男にはそうした才覚などまるでないらしい。

 問題を読みあげ� �諸田の声はこころもちぶっきらぼうになっていた。

「つぎの問題です。長い――指、杭、橋、坂」

 Cのランプがついた。

「合ってます」

 諸田は実験担当者の方を振り返らずに先をつづけた。

「つぎの問題。冷たい――水、雪、手、流れ」

 ブザーが鳴り、ランプがつく。

「間違いです。90ボルト」

 スイッチを入れ、正しい答を読みあげようとして、諸田の表情に怪訝そうなこわばりが浮かんだ。隣室の男の微かな呻き声を聞いたような気がしたのである。正しい答を読みあげながらカーテンの向こうを窺うと、男は身じろぎもせずにじっとしている様子である。気のせいだったのかもしれない。

 だが、つぎの問題を読みあげ、またもや間違ったランプが点灯し、「105ボルト」と� �げてスイッチを押したとき、諸田は隣室の男のあきらかに苦痛に耐えている声を耳にした。気のせいなどではない。今度は気をつけていたのではっきりそう断言することができた。カーテンのむこうで男は苦しげに首を振った。

 105ボルトといえば家庭の電灯線とほぼ同じ電圧である。諸田は先刻、自分の手首を襲った電気ショックの、ひどく不愉快な感覚を想い浮かべていた。あれで45ボルトだと実験担当者は言った。今まで自分に与えられた仕事を正確にこなすことばかりに気を奪われていて考えもしなかったが、105ボルトのショックがどれほどの苦痛と恐怖をあの男に与えるものか、彼にはよく理解することができた。

 肘掛に縛りつけられたあの男の両手首。その手首にべたべたと塗りつけられた火傷防止の� ��めの薬。あの男の心配そうな質問に答えた実験担当者の事務的な言葉――ショックはあるいは痛い場合もあるかもしれません。しかし火傷や傷が残るということはありません。諸田はそうしたことをわけもなく思い出し、すると、ついいましがた心に抱いていた隣室の男の記憶力の悪さに対する軽蔑感はたちまち霧消し、あの男が可哀相になってきた。

 困惑した表情で実験担当者を振り返った。白衣の男は例によって表情の乏しい顔でこちらを見つめていたが、威厳のこもった声で即座に言った。

「どうぞ、先をつづけてください」

 そう言われれば先をつづけるしかなかった。実験担当者がこれだけ落ち着いているところをみると、隣室の男のあの呻き声はただ驚いたためだけであって、なんら実害はないのかもしれ� �い。

「第10問。珍しい――犬、花、鳥、帽子。……どうぞ」

 諸田は問題を読みあげながら、以前たしかこれとよく似た場所にいたという奇妙な気持にまたもや捕われはじめていた。それがどこであったのか、もうひと息で思い出せるような気がするのだが、どうしても思い出せない。それがひどく気持悪かった。

 答のランプがついていた。またもや間違いだ。

「間違いです。120ボルト」

 諸田はスイッチを入れ、正しい答を読みあげる。が、彼の声は、電気ショックを受けてはねかえってきた隣室の男の「ううっ」という呻きにあって語尾が震えた。

「痛いんだ、先生、こいつは痛いですよ」

 隣室の男は、半ば哀訴のまじった抗議の声をあげた。諸田はこわばった表情で実験担当者を見た� �白衣の男はボールペンを手にしてメモをとっていたが、諸田の固い表情にあってもすこしも動じるふうもなく、あいかわらず事務的な態度で先をつづけるようにと促した。

「やりますよ、だけど……」

 諸田はもじもじした。

「どうぞ、実験をつづけてください」

 諸田は心の中で舌打ちをした。いまの抗議の声を実験担当者もたしかに聞いたはずである。それなのに彼は平然としている。いったいどういうことだろう。それとも、電気ショックを受けると、たいしたはずはないのに誰もが恐怖のために大袈裟な声をたてることを、彼は何回もの実験で熟知しているのだろうか。

(つづく)

〔初出『私声往来』創刊号・1979年7月〕



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